裁判例紹介 石綿を取り扱う会社に勤務していた父親が、自宅に持ち帰ったマスクや作業衣にその子が未成年期に接触したことにより成年後に悪性中皮腫に罹患して死亡したとして、子の遺族らが同社に対して損害賠償請求したが、因果関係が否定された事例(東京高裁平成17年1月20日判決労判886号10頁)
本稿執筆者
森﨑 蓮(もりさき れん)
法律事務所 ASCOPE所属弁護士
長崎県立長崎東高等学校 卒業
早稲田大学法学部 卒業
早稲田大学法科大学院 修了
早稲田大学法科大学院 アカデミックアドバイザー(2022年~)
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〈目次〉
第1.事案の概要
第2.主な争点
第3.第一審の判断
第4.控訴審の判決
第5.控訴審の判決の理由
第1.事案の概要
本件は、胸膜腫瘍により死亡したAの遺族が原告となり、Aの亡父Bの生前の勤務先であった会社を被告として、A死亡についての不法行為に基づく損害賠償請求をした事例です。
被告会社は、イタリアで開発された高圧石綿セメント管(エスタニットパイプ)の特許を独占使用してセメント菅を製造販売していた株式会社です。
亡父Bは、昭和27年ころ被告に入社し、同社での勤務を開始し、昭和55年ころまで被告工場の原料職場で石綿を取り扱う業務に従事していました。その後亡父Bは、昭和58年に石綿曝露による石綿肺を原因とする肺がんにより死亡しました。亡父Bの石綿肺発症及びこれを原因とする亡父Bの死亡については、労災認定がなされていました。
他方、Aの職歴は、信用金庫の営業職など一般に石綿を直接取り扱う業務には従事していませんでした。
原告は、①Aの死因が悪性中皮腫であること、②被告会社に勤務して石綿を取り扱う業務に従事していた亡父Bが、被告会社で使用した防塵マスク及び作業着を持ち帰り、Aがそのマスクをかぶる、作業着に触れるなどして家庭内で石綿に曝露した結果、悪性中皮腫に罹患したこと、③被告には、石綿の危険性について従業員に対して徹底した安全教育等を行い、従業員がマスクや作業着を家庭に持ち帰ることにより、その家族が健康を害されることを防止すべき注意義務があるのにこれを怠ったことを主張して、被告に対し、総額約9700万円の損害賠償を請求しました。
原告の請求及び主張に対して、被告は、①Aの死因は肺がんであり悪性中皮腫ではないこと、②Aが、Bの持ち帰った作業着やマスクで遊んだ事実はないこと、③Aが未成年期に石綿に曝露し、悪性中皮腫に罹患することについて被告に予見可能性がなかったことを主張しました。
第2.主な争点
本件の主な争点は、(1)Aの死因が悪性中皮腫か肺がんか、(2)Aの石綿ばく露の有無・程度及び石綿に曝露したことが原因でAが死亡したかどうか、(3)Aの悪性中皮腫の罹患について被告会社に予見可能性があったかどうかという点です。
第3.第一審裁判所の判断
本件について、第一審裁判所は、原告らの請求を棄却する判決を下しました。理由は以下のとおりです。
1.Aの死因が悪性中皮腫か肺がんか(争点1)
裁判所は、まず、Aの死因について、その死因が悪性中皮腫か肺がんかということについて、Aの検査結果を前提に見解を異にする医師・教授らの医学的知見及び医学文献等を詳細に検討しつつも、「現状の証拠関係からAの死因が悪性中皮腫であることは認定することができない」としました。
もっとも、裁判所は、「Aの死因が悪性中皮腫である疑いは強いということができるところ、Aの石綿の曝露歴等によっては、その内容と以上の検討を総合して、亡太郎の死因が悪性中皮腫であり、ひいては亡太郎の悪性中皮腫と石綿曝露との間に因果関係があるものと認定することができる場合もあると考えられる。そこで、次に、Aの石綿曝露の有無・程度、亡太郎の死亡と石綿曝露との因果関係(争点2)について検討する。」と判示しました。
2.Aの石綿ばく露の有無・程度及び石綿に曝露したことが原因でAが死亡したかどうか(争点2)
(1)悪性中皮腫の発症から直ちに石綿曝露の事実を推認することができるか
原告らは、概要「①人の悪性中皮腫の大部分は石綿曝露によって起こることが広く一般に認められており、研究が進んでいけば中皮腫の発症が石綿曝露に限定されていくのであるから、現時点においては、悪性中皮腫を発症した場合、それが石綿曝露を原因としたものであると考えるのが合理的である」と主張しました。
しかし、裁判所は、Aの死因が悪性中皮腫であると認定できていないことを指摘しつつ、「悪性中皮腫は石綿以外に原因がないということが立証されたわけではないし、悪性中皮腫の約45%は石綿曝露とは関係がないという報告もあり、また、悪性中皮腫の患者の肺中の繊維の量について、一般人よりも非常に高い患者がいる一方で、一般的なレベルの数値の患者の存在も指摘されている。これらを総合すると、石綿曝露が悪性中皮腫の発症の大きな原因となっていることまではいえるとしても、現時点では、それ以上に、悪性中皮腫の発症から直ちに石綿曝露の事実を推認することはできないというべきである。」と判断しました。
(2)家庭内に石綿に曝露したものがいることを立証すれば同居家族が石綿に曝露したことを立証できるか
また、原告は「②悪性中皮腫の患者の家族に石綿労働者がいた場合に、その石綿労働者の持ち込む石綿粉じんによる家庭内曝露が悪性中皮腫発症の原因であるとすることは前記①からすれば合理的な推測であるから、Aが悪性中皮腫であることと同居の家族である亡父Bが石綿労働者であることの立証があれば亡父Bが自宅に持ち込んだ石綿粉じんにAが曝露したことの立証は足りる」と主張しましたが、裁判所は、石綿の曝露量と悪性中皮腫の発症の関係については、裁判所は「現在のところ確たる医学的知見はない。」としつつも、医学論文等を指摘しつつ、「ある程度の石綿の曝露量がなければ悪性中皮腫を発症するには至らないか、少なくとも悪性中皮腫を発症する危険性の有無・程度は石綿の曝露量の影響を受けると考えるのが合理的である。したがって、Aの死因及びAの死亡と石綿曝露との因果関係を検討するにしても、Aの家庭内曝露の有無・程度を検討せざるを得ないというべきである。」と判断しました。
そのうえで、裁判所はまず亡父Bの石綿曝露状況及び曝露した石綿を家庭内に持ち込んでいたかを検討し、Bが被告工場において着用していた作業衣やマスクには石綿粉じんがある程度付着していたこと、Bはそれを毎週末自宅に持ち帰っていたこと、Bが持ち帰っていた作業着等は風呂敷に包まれ、他の洗濯物とは別に管理されるとともに毎週洗われていた事実を認定しました。
(3)Aの石綿曝露の可能性及び程度について
次に裁判所は、Aが亡父Bの作業着やマスクを通じて亡父Bが石綿に曝露した可能性について検討し、Aがマスクや作業着に接触した可能性は十分に考えられるものの、先に述べた作業着やマスクの家庭内での保管状況や洗濯の態様などから、接触した機会はせいぜい数度であったと評価し、AがBのマスクや作業着に接触して石綿に曝露したとしてもそれによる石綿粉じんの吸引量は極めて微量であったと認定しました。
(4)Aの石綿曝露と悪性中皮腫による死亡との因果関係について
以上の認定から、裁判所は、「Aの死因が悪性中皮腫である可能性が相当程度強いことを考慮してもなお、前記の曝露可能性及び曝露の程度からして、Aの死因が悪性中皮腫であり、かつ、それが家庭内曝露によるものであると認定することはできない」と判断し、「被告会社が、亡父Bが自宅にマスクや作業着を持ち帰ることを防止する措置を講じなかったとしても、それをもってAの死亡について被告会社に不法行為が成立するとは認められない」と判断しました。
3.Aの悪性中皮腫の罹患について被告会社に予見可能性があったか(争点3)
裁判所は、被告会社の予見可能性について検討するにあたり、まず石綿粉じんへの人体への影響の程度を検討し、石綿粉じんが人体に悪影響を与えることについては、海外においては1930年代初め、わが国においても遅くとも昭和30年代(1955年から1964年)には明らかになっていたものと考えられるものの、家庭内曝露による石綿関連疾患の発症については、1960年代の論文発表に至るまでの間曝露を受けた家族そのものに対する調査が行われておらず、その理由が、家庭内曝露による石綿曝露量が。石綿を取り扱う業務に従事することで曝露する場合(職業性曝露)よりもはるかに少なく、危険視されてこなかった点にあることに着目し、本件で検討すべき予見可能性は、石綿の家庭内曝露によって、労働者の家族が疾患を発症するなど健康を害する危険性があることについての予見可能性であるというべきであり、その予見可能性があったというためには、予見可能性を検討すべき時期において、それに関する知見があったことが必要であるというべきであると判示しました。
そのうえで、本件における被告会社の予見可能性を検討し、裁判所は、まず、本件で認定できる事実を踏まえて、本件で検討すべき予見可能性の時期をAが小学6年生であった1968年(昭和43年)までと定めたうえで、家庭内曝露に関する知見を検討し、我が国で家庭内曝露の可能性が指摘されたのは、昭和51年(1976年)に労働者が着用する作業着を家庭に持込むことによりその家族にまで被害が及ぶ可能性があることを指摘し、粉じんが発散しないように除去・管理する旨を定めた通達(※)が発出されたときが初めてであったこと等から、本件証拠上認められる国内の知見からは、昭和51(1976)年より前に、被告に予見可能性があったと認めることはできないと判断しました。また、裁判所は、海外の知見を見ても、1968年当時石綿の家庭内曝露に関する十分な知見がなかったことから、本件において、被告会社が、Aが家庭内で石綿に曝露することを予見することは極めて困難であったと判断し、被告会社に亡父Bをはじめとした労働者がマスクや作業衣を自宅に持ち帰らないよう安全教育を施すなどの措置を講ずるべき注意義務があったということはできないと判断して、被告会社の予見可能性を否定しました。
原告らは、家庭内曝露の予見可能性が認められた外国の裁判例として、オランダの地方裁判所の判決書を提出したものの、裁判所は、「同判決は、その理由中で、1960年代末には既に石綿の家庭内曝露の危険性を知ることができた、石綿の家庭内曝露の危険性について外国の情報や文献を参考にすることができたことを前提としているものの、その判断の前提となる事実関係や証拠関係は必ずしも明らかではない」等指摘し、判断は覆りませんでした。
(※)「石綿粉じんによる健康障害予防対策の推進について」(昭和51年5月22日基発第408号。)の5項が「清潔の保持の徹底」を挙げ、「石綿により汚染した作業衣も二次発じんの原因ともなる。また、最近石綿業務に従事する労働者のみならず、当該労働者が着用する作業衣を家庭に持込むことによりその家族にまで災わいの及ぶおそれがあることが指摘されている。
このため、関係労働者に対しては、専用の作業衣を着用させるとともに、石綿により汚染した作業衣はこれら以外の衣服等から隔離して保管するための設備に保管させ、かつ作業衣に付着した石綿は、粉じんが発散しないよう洗濯により除去するとともに、その持出しは避けるよう指導すること。」としている。
第4.控訴審の判決
高等裁判所は、本件について、控訴棄却の判断を下し、第一審裁判所の判断を維持して原告の請求を認めませんでした。
第5.控訴審の判決の理由
高裁は、Aの死因が悪性中皮腫であると証拠関係から認定することができないこと、石綿の家庭内曝露に関する国内外の研究状況(論文の発表状況)からしてAが石綿に曝露した時期に被告が石綿の家庭内曝露の発生を予見するのは極めて困難であり被告に安全教育などの措置を講ずべき注意義務がないという第一審裁判所の判断内容を維持するとともに、Aが石綿曝露を受けていたとしても、それによる石綿粉じんの吸引量は極めて微量であったものと推認することができ、被告の工場において石綿が利用されていたとしても、それらが原因でAが悪性中皮腫を発症したとは認めることができないとの判断を示しました。
【弁護士への相談について】
本判決は、あくまでも個別具体的な事実関係を踏まえて、石綿関連疾患の罹患の事実、石綿関連疾患と石綿曝露の因果関係、会社の予見可能性を認定判断した事案ですので、本判決があるからと言って、必ずしも家庭内曝露による石綿関連疾患の発症が否定されるわけではありません。特に、本判決では、昭和51(1976)年に家庭内ばく露の危険性を指摘する通達が発出されていることから、同年が一つの目安となる可能性があります。
具体的な事案において損害賠償請求できるか否かについては、個別的・専門的な判断を必要としますので弁護士までご相談ください。