石綿健康被害により亡くなった造船作業従事者と会社間における「今後…何らの請求をしない」旨の念書が公序良俗に反して無効とされ、遺族からの死亡慰謝料等についての損害賠償請求が認められた事例(横浜地裁横須賀支部平成25年2月18日判決)
本稿監修者
樋沢 泰治(ひざわ たいじ)
法律事務所 ASCOPE所属弁護士
【ポイント】
①造船作業に従事していた労働者に対する企業の安全配義務違反が認められた。
②労働者は昭和16年から昭和60年6月まで、1年間を除く約43年間造船作業等に従事していた。
③労働者が生前に会社との間で交わした念書に、298万円の支払いによって「補償義務 手続きの一切が完了した」とし、「今後…何らの請求をしない」旨記載されていた場合でも、遺族によるその後の損害賠償請求を認めた。
④じん肺管理区分2の決定後、続発性気管支炎に罹り、肺がんで死亡した事例であり、判決における被告会社の賠償金額は2750万円(弁護士費用込み)とされた。
〈目次〉
1 事案の概要
2 主な争点
3 判決
4 判旨
5 まとめ
1.事案の概要
(1)勤務期間と仕事内容
Jさんは、昭和16年から昭和60年まで、1年間を除く約43年間、主に被告会社の浦賀本工場において造船作業に従事してきました。この期間におけるJさんの作業内容を具体化すると、以下のようになります。
S16年4月~S20年10月 仕上げ工(見習い)
S20年10月~S21年10月23日 離職
S21年10月24日~S30年7月31日 仕上げ工(内、約1か月は見習い)
S30年8月1日~S33年12月14日 機関艤装作業(船の推進機関の据付け、調整を行う作業)
S33年12月15日~S60年6月30日 船体艤装作業(船体の諸装置の取付け、調整及び塗装を行う作業)
(2)じん肺管理区分の認定状況
Jさんは、被告会社の在職中である昭和53年に管理区分1の決定を受け、昭和54年7月、昭和57年2月、昭和58年2月、昭和59年1月、同年11月に、それぞれじん肺管理区分2の決定を受けていました。
(3)労災認定・遺族補償年金の支給状況
その後、Jさんは、平成3年4月の検査で法定合併症である続発性気管支炎の認定を受けて労災補償を受けましたが、平成12年9月に肺がんで死亡し、妻である原告が遺産分割協議によりJさんを単独で相続しました。所轄労基署長は、原告に対して遺族補償年金の支給決定をしました。
(4)企業との念書のやり取り
なお、Jさんは、生前の平成10年11月30日に、覚書に基づく念書を提出して被告会社より障害補償金として金298万円を受領していました。この念書は、当時、じん肺管理区分3に満たなかったJさんが被告会社と交渉を重ねた結果、被告会社との間で交わしたものです。念書の記載内容は、以下のとおりとなっています。
「1 会社は、Jに対し、平成9年4月30日付会社と全日本造船機械労働組合住友重機械・追浜浦賀分会との合意書並びに覚書に基づき、じん肺罹患に対する障害補償として、金2、980、000円をJの指定する銀行口座に平成10年11月30日に振込んで支払う。 2 J
は、じん肺罹患に対する会社の補償義務手続きの一切が完了したことを確認し、今後何らの異議を述べず、また何らの請求をしない。」
このように、被告会社がJさんに298万円を支払う代わりに、その後の請求をしない旨規定されました。
もっとも、2項の「何らの請求をしない」範囲について、じん肺に関する範囲に限られるという解釈の仕方もあれば、石綿健康被害全般に及ぶという解釈の仕方もあり、本件では、後述のとおり、死亡慰謝料が念書上の合意の範囲に含まれるのかについても、問題になりました。
(5)訴訟の提起
以上の経緯から、原告が被告会社に対して、雇用契約上の安全配慮義務違反を理由とする債務不履行に基づき3522万円及び遅延損害金の支払いを求めて損害賠償請求訴訟を提起しました。
2.主な争点
本判決の主な争点は、①被告会社の安全配慮義務違反の有無(予見可能性の時期を含む)、②念書の解釈及び有効性、③損害額です。
3.判決
本判決は、上記原告による請求の内、2750万円(死亡慰謝料2500万円+弁護士費用250万円)の損害賠償金及び遅延損害金の請求を認容しました。
4.判旨
(1)予見可能性の時期
本判決では、被告会社の安全配慮義務を判断する前提として、被告会社による石綿健康被害の危険を認識できた時期について以下のとおり判断しています。
「我が国においては、戦前より、石綿等の粉じんによる深刻な健康被害について、既に数々の調査、報告がなされていた上、昭和22年に施行された労働基準法及び労働安全衛生規則において、災害補償をするべき業務上疾病の一つとして、粉じんを飛散する場所における業務によるじん肺症及びこれに伴う肺結核を定めるとともに、使用者に対して、粉じん等による危害を防止するために、粉じんの発散防止及び抑制、保護具着用等の必要な各措置を講ずべき努力義務を課すなどしており、さらに、昭和35年に制定された旧じん肺法及び同法施行規則においては、石綿を取り扱う場所における作業が「粉じん作業」に該当することが明らかにされていたと認められるのであって、こうした歴史的経緯等に照らせば、
被告は、遅くとも昭和35年ころまでには、被告従業員が、被告の運営する工場等における造船作業中に、石綿等の粉じんに曝露し、これにより、じん肺その他の深刻な健康被害を受ける危険性があることを十分認識し得たというべきである。」
以上を要約すると、石綿粉じんによる健康被害の調査・報告の集積状況を前提に、昭和35年には、石綿粉じんに曝露する作業につき、法律上粉じんの発散防止等の努力義務が定められていたことを理由として、被告会社の予見可能時期を昭和35年ころと判示したのです。
(2)安全配慮義務違反の有無
上記の予見可能性を前提に、被告会社の安全配慮義務の内容について、以下のように判示しました。
「被告は、使用者として、遅くとも昭和35年ころまでには、被告従業員が、造船作業中に石綿等の粉じんにばく露することにより、じん肺にり患し、あるいはじん肺を増悪させることのないようにするため、
①粉じんが発生する作業場所における的確な換気装置の設置等の粉じんの発散防止及び抑制のための作業環境の整備、②適切な防じんマスク等保護具の支給及びその着用の徹底、③粉じんが発生する他職種の作業との混在作業の禁止又は抑止、④作業員に対する粉じん教育の徹底等といった、粉じん対策及び措置を講ずべき雇用契約上の安全配慮義務を負っていたと認めるのが相当である。」
そして、裁判所は、被告会社が①~④の安全配慮義務を尽くしていないとして、被告会社の賠償責任を認めました。
(3)念書の解釈及び有効性
続いて、亡くなったJさんの署名押印した念書の効力について、以下のように判示しました。
「被告が支払う金員(298万円)は亡Jが当時り患していたじん肺に対する障害補償金であり、同支払により同障害補償手続が完了したことを合意、確認したものであって、
亡Jにおいて、原告が本訴で請求する死亡慰謝料の請求をしない(請求を放棄する)ことを約したものでないことが明らかであり、本件念書それ自体により本件請求をすることができないと解することはできない。」
本判決はこのように述べ、被告会社からJさんに支払われた298万円は、あくまでじん肺に対する損害補償金にすぎず、
念書をもってJさんが死亡慰謝料の請求を放棄したとはいえないと判示しました。
その上で、念書の前提となっている覚書には、労働者が死亡した場合に差額の請求をできない旨規定されていたところ、仮に、念書上でも死亡時に差額の請求をしない旨合意していたとしても、次のように判示して念書の効力を無効としました。
「仮に、亡Jが本件覚書の上記内容(筆者注:死亡時に差額を請求できないこと)を受け容れて本件念書の作成に応じたと解することができるとしても、被告が亡Jに支払った補償金298万円は、被告において平成20年4月に改訂した補償規程では、亡Jの例のようにじん肺管理区分2であった者がその後死亡した場合に、被告がその遺族に対して支払うべき死亡慰謝料額が2000万円と定められていること・・・に比して極端に低額なものである上、本件のように、
使用者の安全配慮義務違反によりじん肺にり患した労働者が、当該使用者から、その当時の症状に対応する極めて低額な補償しか受けていない場合に、労働者が使用者に対して、当該補償を受ける際に、予め死亡慰謝料までをも放棄することは、労働者に一方的に不利益であることは明らかであり、かつ、合理性は全くなく、これを容認することは到底できない・・・。したがって、本件覚書4項の規定(筆者注:死亡時に差額を請求できない旨の規定)は、
公序良俗に反するものとして無効というべきである。すなわち、同規定を前提として、本件念書により、亡Jが被告に対して、今後何らの異議を述べず、また何らの請求(死亡による損害金の請求)をしないことを約したとしても、
本件念書のうち、そのように解される部分は、公序良俗に反するものとして無効というべきである」
このように、裁判所は、
念書上の合意内容が、Jさん亡き後の死亡慰謝料を含んでいると解することができない、仮に含んでいたとしても、補償額が極端に低額であること等から、念書の記載は公序良俗に反し無効と判断しました。
(4)損害額
最後に、損害額についての判断です。
「亡Jがじん肺にり患し、続発性気管支炎を発症したことに対しては、亡Jは、被告から、障害補償として298万円を受領しているが、その他本件に関する一切の事情を総合考慮すれば、被告の安全配慮義務違反と相当因果関係を有する亡Jが死に至ったことにより受けた
精神的苦痛を慰謝(死亡慰謝料)するには、2500万円をもって相当と認める。」
裁判所は以上のように判示した上で、弁護士費用は250万円を相当と述べ、合計で2,750万円の賠償責任を認めました。
5.まとめ
本判決が示すとおり、造船作業に従事していた方でアスベストによる健康被害を受けた方についても損害賠償を行うことができる場合があります。
また、本判決のように、企業から補償金を既に受け取っており、以後何らの請求もしないことの念書などの書面が交わされている場合であっても、補償額が極端に低額などの事情がある場合、企業に改めて賠償請求を行うことができる場合があります。
具体的な給付の見込み等については、専門的な判断が必要となりますので、弁護士にご相談ください。
以上